昭和45年03月08日 特別奉修委員



 (おかげを、頂いて)あれをそうだと思い込ませて頂いて、信心させて頂くならです。ね。入いっとるの(トン、トン)もう良うはなかの途中からじゃ。本当に私は信心させて頂く者が、あのういわゆる「としみつ」と云う事は「利」の「光」と書いて有るでしょう。「利」と云う事はおかげでしょうね。やはり「願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ」と仰るが、金光様の信心はやはりこのおかげが無かったら、もうやっぱり生きたもんじゃないですね。
 ところがそのだからおかげだけ頂いたら、またこんなにばからしい事は無いのですよ。実際言うたら。ですからそのおかげと同時に光を頂かにゃあね。光は其の侭徳と私は思うんですね。ですからね今朝当たりの御理解を、本気でマスタ─せにゃあいけない。こりゃあ行の上に現して、ね、例えば頭であれを暗記すると言う意味合いだけでは無くてですね。もう繰り返し繰り返し、今朝方の御理解の所をもう一遍頂き直させてもろうて、そう言う在り方にならせて頂くと言う事。
 それが私「高山」と云う事は、高い山ですから山は修行と仰るから、高度の信心と云う事だと思うですね。ね。だからもう高度な信心には絶対、おかげとお徳が付きものだと云う事です。それがましあのおかげおかげだけの信心で有っては、もうこりゃあもう最低ですはねえ。言うならそれだったら、やはり低級視されてもしかたがない。ですからもう此処ん所、例えば今此処の中村さんやら、田中さんやら。
 そこの久保山さん当りは、今なんとはなしに生き生きとした、金光様の信心が今にして解かって来たと云う感じですよね。いま。もう一番始めからやっぱ此処で、その信心に触れて行かれますから、おかげももちろん頂かんならんけれども、その毎日お届けをされる事がですたい、もうなんともかんとも言えんそのね、御理解を今日一日の支えに成ってる。例えば昨日なんか、中村さんなんか毎日。
 毎日もう本当、腹を立てまいと思うばってん、立てにゃあ居られんいらいらするまいと思うばってん、いらいらせにゃあ成らん様な事が、やっぱりあれだけの店をして行きよんなされば、有る訳ですよね。ところが昨日なんかは、もうそんなら一つの教えに取り組んで行って居ると、もうそれがもう毎日は、何時もは腹立てさせなきゃおかんと云う様な、人達でもですね。もうとにかくその和の中に有ると云う訳です。ね。
 もうそりゃあなんともかんとも言えん。其処になんともかんとも言えん様なおかげに成って行きよる訳ですよね。もうそりゃあ本当お話し聞いてから、「ほんと、すらごつじゃあなかの。」と言おうごたるおかげですよね。例えばここ二、三日税金の事に付いてのお願いがずっと有りよりますが、そりゃあ本当有難い事です。田中さんあたりもその所を毎日体験して行きよんなさるが。
 昨日はその主人が朝、こうやって大体は拝みよんなさらんそうですもんね。したら昨日はこっち、東のこっちのほう見てから手を叩いて拝みよったそうですもん。それから子供が「お父さん、何さまを拝みよるの。」と言うたら、まあ照れくさそうにして居られたと云う。「けれども私は、有難いと思います。」と言うて。「ああいう主人がですね、おそらく東の方うを向いて手を叩いて拝みよる所を見ると、やっぱり金光様を拝みよるとじゃろうと思う。」と云う様にですね。
 そのなんとも言えない、例えば雰囲気と云うかおかげをね。そう云うおかげを感じながらでしょうが。感じながらおかげを頂いて行く、だからそう云うね一挙両得と言った様な信心をしなければ駄目です。ただお願いします。お願いしますだけのおかげを頂くと云う事ばっかりの信心程、言うならこげん馬鹿らしい事は無いです。同んなじごと通うて来て、同んなじごとお供えしてです。言うならば。ですから本当に此の辺の所にですね。一ついわば「高山」高度なやはり修行。
 本当に神さまが求めたもう修行を、本気で取り組ませて頂いて、ね。いわゆる「利」と「光」が一緒に頂ける様な信心をいよいよ。もう私は合楽は此処を頂いて行かなければ、おかしいと思うんですよね。此れ程徹底して頂いて居るのですから。ですからどうでも一つ「高山利光」と。そう言うなら高度な信心を身に付けて行くと言う事は、そう言うおかげを頂いて行くと云う事は、今朝あたりのご理解をひとつ本気で、マスタ─させてもらわなきゃあ成らんと云う事ですよね。
   どうぞ。